鷲田小彌太の『まず「書いてみる」生活』を読んで

『まず「書いてみる」生活』:鷲田小彌太著

若い方にもお勧めしたい一冊です。

定年なった人に余生は読むだけではもったいない、書くことを奨めています。書くと言っても日記とかとではなく、自分の著書を残すことを目標とした、書くことの心構え、作法、書く技術などのヒントです。著者の鷲田小彌太は大阪大学文学部(哲学科)を卒業、三重短大教授、札幌大学教授を歴任して、哲学、思想史、評論などジャンルを問わずに執筆し、200冊を越える著作があります。
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話す、読む、書く …、読むところまでは、私も「趣味は読書で… 」と月並みのことを言ってます。でも書くとなると何段もハードルが高くなってしまいます。長い職歴で書いた文章の大半は、お客に書いた謝罪文書、報告書、本社へのSale Report, それに海外工場への納期を督促でしょうか。だから書ける人のように書くことに憧れを持っています。
読書でインプットされた一般、専門知識は様々にアウトプットされています。でも読めば読むほど究極のアウトプットは書くことにあると思えてきます。そんなことで、書き方の本を読み漁ってます。

『まず「書いてみる」生活』は文庫のハウツー本です。でもキーワードを補足する説明が簡潔で学識ある内容で、読むだけで勉強になります。定年退職して余生を書くことで、と言っていますが、若い方にこそお勧めしたい一冊です。定年になって、さてこれからと言ってもそう簡単にはいきません。

小見出しの“私だって書けそう!村上春樹と俵万智”にこんなことが書かれてました。一部引用します。

純文学にほうでも、書く人と読む人の間に、明確な境界線はない、ということを実感させるような作家が現れます。村上春樹で、昭和五四(1979)年、『風の歌を聴け』をひっさげて登場します。
村上春樹は、日本の文壇あるいは文学史とは何の関係も持たずに生まれた作家です。デビュー以降も、同じスタイルを維持しています。
村上の文章は、団塊の世代以降に大きな影響を与えました。誰でも書ける(と思える)、誰もが読める文章を書く、というスタイルが文学界だけでなく、ジャーナリズム、さらには、学術世界にも浸透していったからです。
誰にでも書ける文章ではなく、誰にでも書ける(と思わせる文章であるというところが味噌です。——
書く人読む人の分岐点を最終的に取り外したのが、俵万智です。昭和六二(1987)年、佐佐木幸綱の弟子で年功序列のきつい短歌界から、『サラダ記念日』という地味な歌集が発表されました。大学を卒業した翌々年のことです。初版数が二〇〇〇部に満たなかった、とよくいわれますが、歌集です。この部数は若い新人としては破格でしょう。とは言えこれがあっという間にミリオンセラーになったのです。仰天時でした。—–
—『サラダ記念日』に載っているふう風の歌なら、読めばすぐわかるし、誰にでも書けてしまうのです。しかし、俵万智が書いたから、はじめて、『誰でも書ける』とわかった、ということでしょう。

二人のように、エッと驚かせるイマジネーションも創作力もないので、平易な言葉で平易な文章から書いてみしょうか。

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